知的障害とは?

こんにちは!
東京三鷹市のパーソナル水泳インストラクターの酒井やすはです。

今回は「知的障害」について書いていきます。
これを読んでいる皆さんの中には、「水泳指導ボランティアで知的障害の人と関わっているんだ!」という方から、「よく知らないなぁ」という方もいらっしゃると思います。
もし関わっている方でしたら、この記事を読むより目の前の方と一緒に過ごして人となりを知っていく方が良いと思いますし、周りにいない方へは良い意味で先入観が書き換えられて、「なんだ、私と変わらないな」という気持ちが1パーセントでも増えてもらえたらうれしいです。

知的障害のあるご本人の方が読んだとき、「私もそう感じる!」というものもあれば「ここは私とちょっと違うな」というものもあると思います。個人差があるので、これは「絶対に正解です」と書けないので、始めに謝ります。

多くの人が、協力し合って生きていけることを願い、その視点でお話ししていきますね。

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こちらでは障害の表記を「障害」とさせていただきます。
福祉畑で働いていると、「表記よりも中身の方が大事だ」と思う反面、やはり気にされる方もいらっしゃると思うので、その理由を説明いたしますと、一つに私自身とその周りの方は表記よりも中身についてしっかり話し合う仲間が多い環境で生きてきたということと、音声読み上げソフトにかけた際に「障がい」表記では「さわりがい」等と誤った情報をお伝えしてしまうため、「障害」表記に統一させていただいております。

障害のあるなしに関わらず誰もが暮らしやすい社会となることを願い、お伝えしていきます。
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現在は病院で診察を受けて、IQよって知的障害と診断を受けます。

IQとは知能指数のことで、重度・中度・軽度に分けられます。

知能指数(IQ) =
精神年齢(発達年齢) ÷ 生活年齢(実年齢) × 100

上記の式により、精神年齢(発達年齢)と生活年齢(実年齢)の比率をパーセンテージで算出し、50~70%は軽度知的障害、35~50%は中度、20~35%は重度、20%以下が最重度と分類されます。
また、知能指数が70~85%の場合はボーダーラインであり、知的障害と認定されない場合が多いです。

軽度の知的障害では、障害があることが見ただけでは分かりません。
知的障害の約8割が原因は明らかではなく、2割は染色体の異常や高熱などが原因だそうです。

ただ、あくまでも医学的に診断を下しているので、実生活の「困り感」とは違います。
この「障害の重さ」=「困り感」ではないところが落とし穴です。

人によりますが、一人暮らしが困難な場合、グループホームという共同生活の場で生活していたり、ヘルパーと呼ばれる介助者と共にアパートで暮らすなどしています。

特別支援学校か普通学校などに通った後、福祉就労(作業所など)か一般就労などをして生活しています。かなり重度の人の場合は家と施設を往復して、ケアを受けながら生活します。

誤解が多いのですが、どのような障害者もいきなり「切れる」ことはありません。
何かきっかけがあったからこそ、声を出したりして、「それをされたら嫌だ」と伝えますし、そもそも私たちと同じく「顔色」は変わります。
当たり前ですが、街中ですれ違う程度ではその「顔色の変化」は気付かないので、「いきなり怒ったように見える」のです。また、「ヘルパー」など支援者も、そのサインが小さければ小さいほど、より多く長くお付き合いしていないと分かりにくいものです。

これも自然なことですが、「先生の前ではきちんとしていて、家では怠ける」など相手により態度は変わるものです。知的障害者の方も同じように「これは安心して相談できる」「この人となら、一緒に野球ができるから遠くまでボールを飛ばしても許してくれる」など観察力が鋭い人が多いです。時には親御さんの方が「これができるの?知らなかった!」と、ヘルパーに当たり前に見せていた顔を後から知ることもあります。

歴史上「がんばれ」「やればできる」と言われ続けてきた人

知的障害者を「飛び跳ねる」「急に手が出る」「急に声を上げる」などなど挙げる人がいますが、それ100パーセントではありません。

当たり前ですが、知的障害者も人間なので嫌なことは嫌と感じ、ただその表現が分からず困っていることが多くあります。
中には「健常者から(理解できないだろうと思われて)目の前で悪口を言われて悲しかった」という話や、「もう40歳なのに『●●ちゃん(子供の時の呼び方)』と呼ばれて『さん』づけされない」という話も聞きます。人によりますが、人として年相応の対応をしてもらいたいと思うのは自然なことだと思います。

軽度の知的障害者は、見た目は健常者と同じ、買い物もできる、一人暮らしもできます。

この「健常者と変わらない」という見られ方が原因で、「理解されない」と悩んでいるのです。

「どうしてもココができない」「あれだけは苦手」というものがあったとき、「なんでできないの?」と言われてしまい傷ついたという話を聞きます。

右足を欠損している人に「右足でボールをけってください」と言われることと同じくらい、「物理的にできない(場面が変わろうと工夫しても、できない)」という感覚です。
車いすの人がどんなに手を伸ばしてもとどかない「棚の上の物を取って」というような、「場面によって、工夫すればできる可能性があり得るもの」ではないのです。

時に「わがままだ」と誤解され、このすれ違いで苦しんでいる人はたくさんいます。

障害者手帳にはIQ検査で「軽度」と書かれていますが、実際の場面では「重度」なのかもしれません。

歴史上「がんばれ」「やればできる」と言われ続けてきた人なのです。

「見た目が健常者と変わらない」ので、できないときに「やればできる」と思われ、ある日できなかったときに「さぼっている」と言われもいます。

私たちは人間なので、体調や気分により「たまたまできなかった」「いつもの調子じゃないな」ということは仕事や学校で多くあります。時々休んだりして、また明日から調子を戻そうとします。

軽度の知的障害者は、体調や気分で「いつもの調子じゃないな」と思っても、周りから「やればできる」と思われているので「さぼるな」と言われてしまいがちです。
「休めばいいじゃない」と思うかもしれませんが、「休みたい」と伝えることもできず、そもそも「どの程度の体調不良になったら休もうか分からない」「周りの人が頑張っているから、やっぱり言えない」と本音を隠してしまう人も多いのです。

私たちは無意識に「このテーマはこの上司に相談しよう」とか「あの人にはここまで伝えておこう」と考えています。

このさじ加減が難しいといわれたことがありました。
健常者でも「あんばい」が難しいものを、意外と「なんで言ってくれないの」と友達に言ってしまうことはありませんか?

この場面に多く出くわしやすいのです。

また、「これは内緒」と言われれば、誠実に守ろうとします。それゆえにストレスがかかったり、虐待をされてぼろぼろになっても「本人の口から出ない」といったケースになるのです。

本当に信頼できる人、信用できる人との会話ほど安らぎがあったりエネルギーをもらえるものはありませんよね。
知的障害者の方も、そのような人や場面を求めているのだと感じています。