障害者の歴史 明治時代~昭和時代(敗戦後)

こんにちは!
東京三鷹市のパーソナル水泳インストラクターの酒井やすはです。

障害者の歴史、明治、昭和時代に入っていきます。
昭和は長いので、ここでは第二次世界大戦を区切りと考え、敗戦後まで取り上げました。

歴史には所説ありますが、今まで学校で習ってきた日本の歴史と絡めて、ぜひリラックスして読んでみてくださいね。
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こちらでは障害の表記を「障害」とさせていただきます。
福祉畑で働いていると、「表記よりも中身の方が大事だ」と思う反面、やはり気にされる方もいらっしゃると思うので、その理由を説明いたしますと、一つに私自身とその周りの方は表記よりも中身についてしっかり話し合う仲間が多い環境で生きてきたということと、音声読み上げソフトにかけた際に「障がい」表記では「さわりがい」等と誤った情報をお伝えしてしまうため、「障害」表記に統一させていただいております。

また、文献に沿って、現在では差別用語になる言葉もところどころ出てきます。
私自身に差別の気持ちはありませんが、障害のあるなしに関わらず誰もが暮らしやすい社会となることを願い、歴史のままにお伝えしていきます。
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幕府軍と政府軍の激しい衝突「戊辰戦争」が終わり、明治維新を経て、日本は近代社会への道を歩みはじめる準備期間です。武士の時代は終わり、武士や貴族などの中の大きな家はそのまま富裕層となります。

多くの障害者はモノづくりができなかったことから「働けない者=社会の役立たない者」とされ、江戸時代に発展した障害者保護政策は、明治元年(1868年)に廃止されます。江戸時代まで盛んだった琵琶法師や琴の活躍の場もなくなっていきました。
代わりに「恤救規則」という現在の生活保護法につながる政策が生まれました。これにより、障害者が町の中で共生できなくなり、家族の中でひっそり暮らすか、生活に困窮している場合にのみ行政的な援助が受けられるに留まりました。

このころ、宮城道雄という、昭和時代まで活躍した後の琴の演奏家が生まれました。7歳で眼病が原因で失明しますが、11歳の時に琴の免許皆伝をうけ、視覚障害者の中で地位の高い「検校」となりました。14歳の時に作曲をし、それが伊藤博文の評価を得て、博文の前で演奏することが約束されるものの、博文が暗殺されて叶わない夢となりました。戦争が激化して音楽が社会的に不利な扱いを受けるまで、創作活動や門下生の育成、ラジオ番組に出たりなど活躍しました。

近代化を目指して「学制」が公布されると、それまでの寺子屋が「学校」になりました。
寺子屋が学齢期を定めていなかったことに対し、学校では学齢期を決めていました。まだまだ学校に通えるのは一部の富裕層が多く、「習い事に学校へ行く」という感覚もあり、庶民は家の手伝いをしていました。まだまだ健常者の学校も義務教育ではなかったのです。
各地で大学や女子大学も建てられますが、男性優位の社会で、女性が学問を選ぶことは「お嬢様が習い事に行く」風潮で「妊娠できない」などと言われていました。津田梅子が大学を建てたときも、大学を卒業後社会に女性が進出する道がなく、「女性は家庭に入る」道しか選べず、将来国を支える「男性」は物理学や工学などを学び、国も「欧米諸国を目指していける人材」を育成していきました。
1760年にはド・レペにより世界で最初の聾学校が作られたことに影響されて、1873年に日本で最初の盲学校・聾学校が開設されます。ここでもやはり学問を身につけるのではなく、「働く技術」を身につけることがメインで、欧米化を目指す社会に沿えるよう、「働くことのできる障害者なら社会に受け入れる」という考えからでした。
世界的に有名なヘレンケラーが、サリバンと出会い、本格的な教育を受けるのもこの頃です。ヘレンケラーの両親は、電話の発明で有名なベルが聾唖教育に力を入れていたことで手紙を書き、ベルがパーキンス盲学校を紹介し、当時優秀な成績だったサリバンが卒業後にヘレンケラーのもとへ派遣されたのです。サリバンも3歳の時にトラコーマという眼病で弱視でしたが、卒業時にはある程度の視力が回復していた視覚障害者でした。

ベルの一家は弁論家で、父親は大学教授、兄が視話法(現在の読唇術)を研究していました。ベルが12歳の時から母親が聴力を失っていき、手話も習得して家族の中では同時通訳をして会話をしていました。
母の額に直接口を当てて発音すると、母親が音を聞き取れるということも分かり(今でいう骨振動で音を聞くことと思います)、これが音響学を学ぶきっかけになったとも言われています。母の聴覚障害について没頭するあまり、音響学を学び、のちに迎えた妻も聴覚障害者だったこともあり、手話ではなく読唇術を使った聴覚障害者教育を進め、聴力計の研究などに取り組んでいきました。
ベルとサリバンにはそれぞれ弟がいましたが、二人ともこの時代流行っていた結核が原因で亡くなっています。
この時代に活躍した正岡子規も結核にかかっています。
正岡子規はペンネームを100以上持っていましたが、肺結核になった29歳からあえて「子規」と名乗ります。「子規」とはホトトギスのことで、口の中の赤いホトトギスのことを、結核患者のたとえとして使われていました。
36歳で亡くなるまで、肺結核から歩行困難(カリエス)になり、寝床から出られない状態になってしまいます。
当時、結核は「治らない」「感染する病気」として恐れられており、隔離されることも当たり前でしたが、子規の学友だった夏目漱石は、部屋から出られなかった子規のもとに足しげく通い、仲間を集めて子規を囲み、俳句遊びなどをしていました。子規は仲間と共に楽しい時を過ごし、布団の中で庭の草花を絵にしたり、俳句を詠んだりして晩年を過ごしました。

近代化に力を注いだ人物に吉田松陰がいます。松下村塾で学んだ高杉晋作や伊藤重文など名だたる人物を送り出しました。松陰の弟「杉敏三郎」は先天的に聴覚に障害を持ち、話すことができなかったそうです。家族の中では筆談やジェスチャー(手話)をして会話をしていました。松陰は敏三郎が文字を書けるように、絵本を買ってきて読ませました。
と、いうのも文字ばかりを読んでいても、聴覚障害者にとっては「どのような場面」で使う言葉なのか分かりづらく、絵がついている本の方が、理解しやすいと考えたからです。
この、絵本を使って文字を習うヒントを得たのは、同じく聴覚障害者の「谷三山(たにさんざん)」からの助言によるものでした。
三山は江戸時代後期に生まれ、11歳の時、目と耳を病気し、14歳の時に聴覚を失った中途の聴覚障害者でした。体は弱かったものの本を読むことと記憶力に優れ、のちに儒学者となり、聴覚障害を持ちながら私塾「興譲館」を開き、のちに藩公認の学校となった人物です。
松陰とは筆談による対話をし、聴覚を失った感覚や、聾教育の相談をしていたと伝えられています。

医学博士の野口英世も、いろりに落ちて火傷して手の指が棒のように固まってしまった中途障害者でのちに医学博士となりました。手が不自由なことで差別を受けながらも勉強を続けてこられて職に就いたという点ではまれでした。

1923年(大正12年)、関東大震災が起きた同じ年、大阪に盲学校が設立されました。
設立したのは岩橋武夫というキリスト教の神学者で、大学在学中に網膜剥離が原因で中途の視覚障害者となりました。後に海外の大学にも留学し、ヘレンケラーとも会い、昭和に入ると「ライトハウス」という施設を設立し、点学による学問の普及活動をしました。
ヘレンケラーは日清戦争の始まった頃1937年日本に招かれ、日本の障害者支援について東京盲学校で講演しました。琴でお話しした宮城道雄は昭和に入ると東京音楽学校(現東京芸術大学)の講師を経て、このとき東京盲学校(現筑波大学特別支援学校)講師を務めていました。その後2回ヘレンケラーは来日しますが、第二次世界大戦の後になってしまいます。

日本は富国強兵を掲げて、先進国に追いつけ追い越せと軍国化を進めていきます。
多くの障害者は兵隊になれないので、「国の役に立たない」という考えが広がり、「天皇のために死ぬ」ことが美徳とされた時代でした。日本だけではなく世界でも障害のあるなしに関わらず「社会的弱者」と見られた子供や女性、ハンセン病など病人や体の弱い人、他民族はまとめて「非国民」「穀(ごく)潰し」と社会の荷物という極端な見られ方をされていきます。

北條民雄という作家も19歳の時にハンセン病にかかり、現在の東京都東村山市にある施設に隔離され、その時の体験を「いのちの初夜」に記しています。原題は「最初の一夜」で隔離されてからの一週間の生活を描いた短編小説です。原題を『いのちの初夜』に変えるよう勧めたのは川端康成で、1935年に第二回文学賞(現在の芥川賞)を受賞します。第一回文学賞には石川達三、候補者の中に太宰治が、選考委員会には川端康成の他、山本有三や谷崎潤一郎、菊池寛、横光利一など名だたる作家が入っています。
隔離生活を余儀なくされながらも23歳で亡くなるまで執筆活動を続けました。子規とはちがい、多くのハンセン病患者と同じく病気であることを社会に公表せず、公表されたのは2014年になってからです。

日本ではやがて空襲の激化によって、小学生を中心に疎開が始まりました。空になった学校は軍需工場に変わっていきました。
養護学校の児童も同じく疎開はできましたが、軍の将校から校長へ青酸カリが渡されていたという話が残っています。また、戦争の役に立たない社会的弱者は乱暴もされ、障害者もターゲットにされていました。暴行を受けて障害をひどくさせられた人もいたそうです。
戦争により、医者は傷痍軍人として戦地での治療に向かうことになり、一般市民は治療を受けづらくなります。江戸時代まで針やあんまで活躍できた視覚障害者ですが、この時代になると戦地の負傷兵の治療にあたる人もいたそうです。

「逃げるのに足手まといになる」と家族に見捨てられてしまう障害者もいる中、家族の力でなんとか生き延びた障害者もいます。町で防空壕での避難訓練も行われるようになりました。視覚障害者を家族に持った人の中には、家と防空壕を往復するのではなく、視覚障害者にあえて防空壕にいてもらい、すぐに避難できるようにした家族もいたそうです。そして、空襲にあうと家族の手を頼りに、後ろや横からくる火事、モノが落ちる音、何かが燃えるにおい…などを感じながら戦火の中を逃げ回ったそうです。
聴覚障害者は、耳で周りの状況を察知することが困難なため、目の前の軍人が何をしているのかよくわからなかったそうです。沖縄戦では日本兵の質問に答えられずスパイ容疑がかけられた人もいたそうです。

戦争が激化し、第二次大戦中のナチスドイツによる他民族の虐殺は有名ですが、実際にユダヤ人たちが狙われる前、ガス室等を使った虐殺の「実験」をしており、その「実験」に障害者が狙われていきました。

そして長かった太平洋戦争が終わります。皮肉なことですが、人類の歴史上初めて、戦争による戦死者の数と戦争による病死者の数が逆転し、戦死者の数が上回ります。

日本に限らず世界でも多くの負傷兵が母国に戻ると、あんなに「お国のため」とたたえられた兵隊が一気に冷たい視線を浴びることとなりました。
現場で戦っていた兵隊は負傷だけではなく、PTSD(精神的なトラウマ)に悩まされます。アメリカなど銃を持つ国ではベッドに寝ながらも夢の中では戦地に立って戦い、思わず寝ながら銃をとって乱射してしまい隣の妻が危うく殺されかけた…ということもあったそうです。体のリハビリテーションと精神的な面の治療が進んでいきました。

日本は戦後GHQの統治下にありました。太平洋戦争終結後の1948年にヘレンケラーの2度目の来日があり、ヘレンケラーはGHQが用意した列車を使って東京から北は札幌、南は長崎まで日本全国を廻りました。
日本はGHQの指示の下で社会福祉に対する施策を打ち出しました。それまで養護学校が義務教育になり、1946年に生活保護法、1947年に児童福祉法、1949年には身体障害者福祉法(ヘレンケラー来日後、旧盲人福祉法だった)が立案されることへつながりました。
また、福祉事業を民間が行えるよう1951年には社会福祉事業法が制定され、戦後の障害者福祉を形作る素地になったとされます。

障害者は健常者側の価値観の中で、戦争の海に揺れたり流されたりしながら、時には「普通」に、時には「隔離」されながら時代を超えて生きてきました。