障害者観とは

こんにちは!
東京三鷹市のパーソナル水泳インストラクターの酒井やすはです。

固くならず、一緒に地域でスポーツすること、の「そもそもロン」を書いていきます。
どっちが配慮しなさい、しっかりとこうしなければならない、バリアフリーが進んでいないのはまちがい…
「福祉」と聞くと、そんな「正しさ暴力」や「あるべき暴力」に縛られがちです。

でも、「正しさ暴力」から「平和」は生まれるのでしょうか?
「住みやすい地域」「スポーツする楽しさ」「何となくいるだけでワクワク楽しい」環境を作り出せるのでしょうか?

他のページの「障害者の歴史」も見てみてくださいね。
振り返ってみて、皆さんはどのように感じられましたか?
様々な時代に色々な人たちが、障害者との関わりをどのように持っていたのかが垣間見えたのではないでしょうか?

現在、身体障害も知的障害も精神障害、発達障害…全てにおいて原因について諸説あり、生後の黄疸また複数の原因が絡むことなのでハッキリ「原因はこれだ!!」というものはありません。「脳に障害が残って下半身が麻痺してしまったのですが、そもそも脳に障害が出た理由はなんでしょうか?」と言うように、なにか根本的な原因はあるのかもしれませんが、よく分かっていないことが多いのです。

「環境汚染が原因」と言われれば、「現代人より良い空気の世界にいた昔の人に先天性の障害がなぜでるのか」反論され、「食べ物が原因だ」と言われれば、「添加物のない時代にも障害者はいた」と返されます。
「遺伝が原因だ」と言われれば、「同じ兄弟の中に障害者も健常者もいる」場合の説明がつかず、「聴覚障害者の夫婦のこどもは耳が聞こえる」こともあります。
私の知り合いの障害者の中にも「○○を食べたらいけない(障害が治らないから)」と親から言われた人もいました。

歴史で見てきたように、医学の発展していなかった時代にも、「障害者」と呼ばれる人はいました。
医学の視点が入ってきたのはこの最近です。

今より医学も進んでいなかった時代にも、「障害」と上手に付き合い、生き延びてきた「障害者」がいたことは歴史で明らかです。

医学の目があろうとなかろうと、目に見えるものであってもなくても、「障害」は存在していたのです。

医学的に原因の究明し、極端に言えば、障害を「治すもの」、「正すもの」、「守るもの」として見るのは、「障害は本人についているもの」として見たときに起こる考え方です。

なぜ「治そう」とするのでしょうか?

歴史のなかでは、「指が1本多い!!(体が違う)」「知的な遅れがある!!」となれば、指を本当に減らしたり(!)祈祷してひたすら神頼み…など様々な方法で「健常者にしよう」としていたことがありました。(障害者の歴史のページを読んでみてくださいね)

もう1つ、障害は人と人との間にあるもの、とする考え方もあります。

一方で、医学で解決できない「障害」もあります。
階段の横にスロープをつけてバリアフリーにしても、そこを使った車いすの人に心の中で舌打ちしていたら、本当のバリアフリーと言えるのでしょうか?目に見えない「障害」がここにあります。
この場合、障害があって困っているのは、車いすの人よりも、舌打ちした「健常者」の方かもしれません。
障害とはそれそのものが「悪いもの」「健常者が指導するもの」「治すもの」…ではなく、人と人との間にあるものとも言えますね。
「ただそこに車いすを使っている人」がいると、その個性の一つと言いますか(ニュアンスが伝わらなかったらごめんなさい)…「その人まるごとその人なんですよ」と受け入れることが大事だと思います。

先天性の身体障害者の腹を割って話せる親友に、「(もともと足がないなら)義足を欲しいですか」と聞いたことがあります。
「先天性の場合、もともと足がなくて100パーセント自分の体だから、義足があっても使い方が分からないから、いらない」という意見が多く(その場にいた人5人全員)、「中途障害者なら『過去』と『現在』を比較できるから、『治したい』とか『義足をほしい』と思う」とも付け加えられました。
確かに中途障害であれば「(もともと存在していた)足がなくて困る」と思う気持ちも分かりますが、先天性の場合は「社会の目の方が困る」ことが場面として多いことに気付き、「なるほどな~」と感じました。

ホンネの「困っている感」が、一人ひとり違うのも当たり前ですね。

体が違うので、理解ができても感覚的に共感しきれないところもあります。
見ている景色が違うので、感じることも嫌いなことも同じであったり、違うこともあります。

それは、健常者からみた障害者も、障害者からみた健常者も同じです。

障害者同士でも「仲の悪い」人はいますし、健常者同士でも「仲の悪い」人はいます。
お酒やタバコが好きな障害者も、お酒やタバコの好きな健常者もいます。
水泳の好きな障害者も、水泳の好きな健常者もいます。
化粧をする障害者も、化粧をする健常者もいます。
心臓マッサージや人工呼吸ができる障害者も健常者もいます。
ボランティア活動をする障害者も健常者もいます。
結婚する障害者も健常者もいます。

その上、人付き合いなので、そこに相性があるのは当たり前なのに、なかなか知る機会がなかったり、見ているようで見ていなかったり、レッテルを貼ってることは無意識に沢山出てくるものです。

お酒は飲まない、たばこは吸わない、スポーツができない、応急手当ができない…。知らずにレッテルを貼ったり、可能性にブレーキをかけていることは多いものです。
そして、障害者に対してのブレーキは、自分へのブレーキだと気付かされます(築かされます)。

得手不得手があって当たり前で、お互いさまの気持ちで、どう仲良くやっていこうかという気持ちが大切だと感じています。

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