こんにちは!
東京三鷹市のパーソナル水泳インストラクターの酒井やすはです。
ちょっと今回は見方を変えてみますね。
皆さんは「障害者の歴史」って知っていますか?
世界により、「障害者」に対する考え方はさまざまです。
この2016年4月から「障害者差別解消法」が施行されました。
よく例えられることですが…物理的に建物にスロープをつけて、差別は解消されるのでしょうか?
物理的には段差の解消がされますが、「車いすが通ると、道幅が狭くなるじゃないか」なんて周りの目が変わらなかったら、差別解消にはなりませんね。
「何でも障害者に配慮しなさい」「健常者はガマンしなさい」という法律ではありません。
あくまでも、「障害のある人もない人も共に社会で暮らしていく」ための法律です。
一方、海外では「差別禁止法」が施行されています。
とはいえ、健常者が障害者の気持ちを理解することはとても難しく、障害者も健常者の気持ちを理解することは難しいものです。それは、家族であっても「お母さんの気持ちなんてわからない!」「こどもの言ってることが理解できない!」というのですから、当たり前と言えば当たり前のことです。
ただ、お互いに当たり前であることが、当たり前でないから、より「そもそも論」で暗中模索になります。
意見をぶつけ合ったり話し合ったりできれば良いのですが、お互いに理解が進まず「健常者はわがままだ」「障害者はわがままだ」と終わってしまうのは苦しいものです。
これを解消するには①たくさんの障害者や健常者とお話しする②障害者の歴史を知る、がおすすめです。
私が障害者の歴史を学んだとき、「あーこういうことだったのか!」「どうして学校で日本の歴史を習うとき、障害者の歴史がなかったんだろう!」と思うくらい、新しい世界でした。これを知ることで、本来の「だれもが暮らしやすい社会とは何か」が叶うと思っています。
歴史には所説ありますが、今まで学校で習ってきた日本の歴史と絡めて、ぜひリラックスして読んでみてくださいね。
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こちらでは障害の表記を「障害」とさせていただきます。
福祉畑で働いていると、「表記よりも中身の方が大事だ」と思う反面、やはり気にされる方もいらっしゃると思うので、その理由を説明いたしますと、一つに私自身とその周りの方は表記よりも中身についてしっかり話し合う仲間が多い環境で生きてきたということと、音声読み上げソフトにかけた際に「障がい」表記では「さわりがい」等と誤った情報をお伝えしてしまうため、「障害」表記に統一させていただいております。
また、文献に沿って、現在では差別用語になる言葉もところどころ出てきます。
私自身に差別の気持ちはありませんが、障害のあるなしに関わらず誰もが暮らしやすい社会となることを願い、歴史のままにお伝えしていきます。
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旧石器時代から縄文時代にかけてを先土器時代と呼びます。
まだ地球が冷え切っていた氷河期、日本列島が大陸と陸続きで、日本海は大きな湖だった時代のお話です。
人類は氷河期という厳しい時代の中で火を使い、狩猟生活のために石を細工して武器として使うようになり、寒さから身を守るため毛皮を着て生活していました。
毛皮を着る、ということは「縫物」ができたということですね。
3~4万前に東シベリアで古代の縫い針が発明され、木や骨などから作られていました
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次第に集落から、村、町、国…と、戦争と平和の時代を繰り返しながら、社会が広がっていきます。
シルクロードやピラミッドに見られるような大規模な工事は元より、街を作るために、石材などモノを運ぶのに、工事現場でよく見られる二輪の手押し車もこのころすでにあったといわれています。
この頃、戦争による傷病者が出た時、死亡率が高かったのは戦争による傷病よりも、圧倒的に感染症の方でした。
あまりも怪我が大きい人や身分の低い人はその場に置き去りにされたりもされていましたが、身分の高い人が傷病者になったときに安全な場所へ運搬することや、感染症と対抗したり、怪我や病気をなんとかできないかと医学も大陸の各地で発達していきます。
紀元前4~5世紀に旧約聖書がまとめられ、ここに「死んだ子供の口に預言者が口をあて…(省略)蘇らせた」と今でいう応急手当の「吹き込み」が垣間見れる物語があります。
紀元前1000年代ごろ、古代エジプトの遺跡には「担架運びの歌」が遺跡に残っています。古代中国ではモグサを使った療法と並行して、医療用に針が使われるようになりました。
日本では、1万年前の長野県にある栃原岩陰遺跡から、鹿の角でできた、針穴が空いた縫い針が発見されました。
ローマ帝国の教育者クインテリアヌスは、早期教育と学問の楽しさを伝えようとした人物で、「盲人に文字を」という試みを最初に行なった人物と言われ、木や金属板など文字を彫り込んでいきます。点字の始まりと言われており、日本に伝わるのは幕末になります。
道具の歴史、ちょっと頭の片隅に入れておいてくださいね。
話を少し変えましょう。
現代は医学が発達していて出産に対する手厚いサポートがありますが、この時代はお医者さんがいないので出産そのものが現代よりもサポートの面でリスクが高く、母子ともに危険を伴うものであったことは推測できます。
悲しいことですが、生まれた時に障害を持って生まれた人は「間引き」と言い生まれたその場で殺傷されている文化があった可能性も捨てきれません。
それでも成長してから怪我などで障害を持つ人はいました。この時代の、重篤な障害を伴う骨が見つかっているからです。
ただ、障害者がどのように生活していたのか、はたまた文化の中に差別意識があったのか…定かではありません。
1966年に北海道洞爺湖町の縄文時代の入江貝塚で約4000年前の人の骨が見つかりました。20歳代と思われ、頭は普通の大きさなのに、両腕と両脚が極端に細く、指や足の骨は、長い年月の間に分解し消えている状態でした。
何らかの理由で四肢がまひして寝たきりとなり、筋肉が衰えて動けず、骨が発達しなかったためと思われる骨でした。
鑑定した結果、「ポリオ(小児まひ)の患者」と推測されました。
ポリオは現在ほぼ根絶した病気ですが、大昔の地球では恐れられていた感染症であり、古代エジプト第18王朝(なんと3000年以上前!)の石に掘られた遺跡の中にも、「右脚だけが極端に萎縮し、つえを突く患者」というものが見つかっています。
ポリオは両脚のどちらかにまひが残ることが多く、四肢すべてがまひするのは患者の3%ほどだそうですが、この縄文人は大きな障害が残ったようです。
骨の太さは通常の3分の1から5分の1ほど。
細すぎて、自力では立つことができません。
ぎりぎり這って生活できたのか、というところです。
現在ほど医療は発達していなかったことを考えると、寝たきり生活を余儀なくされたものの、20歳までは生き延びていたということは、「誰かの手を借りながら、食事ができた、生活ができた」ということです。
また、このようなポリオにかかった骨は栃木県大谷寺洞穴遺跡など、他の地域でも見つかっています。
縄文時代は難産で幼児の死亡率は高かったので、これを含めると平均寿命が極端に低く計算されますが、65歳まで生きる人が全体の3割はいたと考えられています。
30~40代の間に平均寿命があったと考えると、障害がありながら20歳というと、そこそこ長く生きていたことが分かります。
卑弥呼の時代、日本は穏やかだったのかもしれません。
ただ、縄文時代の知的障害者については明らかにされていません。
縄文時代にもイネは育てられていましたが、弥生時代になりそれが本格化します。
水のある所から文化は生まれ、また水を求めて戦争が生まれます。
縄文時代にも武器で傷ついた骨が出土しますが、いわゆる集団同士がぶつかり合う「戦争」というものは少なかったと考えられます。
その理由に、縄文時代の武器は先端の丸いもので、弥生時代の方が鋭いことから、戦争用に進化していったと考えられています。
戦争が始まると、「先天性の障害者」だけではなく戦争によって「中途障害者」が出てきます。いわゆる「負傷兵」というところですね。
まだ日本の文字の記録がなく、中国経由で歴史が残っている時代なので定かではありませんが、医療も発達していないので、負傷兵は長く生きていけなかったと考えられています。
一方、国交のあった中国では春秋戦国時代にかかっています。
三国志で有名な諸葛孔明の活躍した時代ですね。
そして、なんと「諸葛孔明が、車輪のついた椅子に座っている絵」が残っているのです!
諸葛孔明は障害者ではありませんが、中国に限らずユーラシア大陸の中で、「車輪」と「椅子」ができた文明が、「車いすは障害者の乗り物」というわけではなく、自然発生的に二つを組み合わせて使用されていたようです。
古墳時代、日本は中国との国交が途絶えます。
そのため、中国の文献に日本の歴史の記載がほとんどなく、未知の多い時代です。
飛鳥時代にかかると、日本で最古の書物『古事記』の編纂が完成します。
青銅器文化と習った覚えはありますか?
古事記によると、先土器時代で触れた針も青銅器・鉄製のものになり、縫い針として使われるようになっています。仏教伝来の後、鍼灸が中国から伝わります。
このころの文化から、障害者への味方を垣間見ることができます。
この『古事記』の中には日本で最初の男神、女神、イザナミ、イザナギ二神の間に生まれた最初の子「ヒルコ(水蛭子)」が、未熟児の身体障害者と言われています。
3歳になっても体がグニャグニャなことから、ヒルを想像して名づけられました。
このヒルコは葦の船に乗せられてアハシマ(淡島)へ流されてしまいます。
この時代の信仰では、手足の麻痺は邪気を払うとされていたためです。
そして、現代では理解しがたいのですが、古事記には「子供の相談をするときに女神であるイザナギから声をかけたことで障害者が生まれた」とあり、これが文字で残っているものの中で、女性差別と障害者差別のきっかけとも言える文献と意見されています。
そのヒルコが平安時代ごろ、インドからヒンドゥー教が輸入されたころに「恵比寿様」という神様が知られ、「蛭子」を「えびす」とも読むことにかけて、エビスと名を変えて、福の神となりました。
葦の船が無事に岸に流れついて、そこで魚釣りの神となったという話です。
古事記は、編纂書物でいわゆる編集長は「太 安万侶(おおのやすまろ)」で、日本各地の神話や歴史をまとめたものです。ということは、歴史に名が残らない庶民の力によって、ヒルコは歴史に復活できた障害者とも考えられます。
その他にも、「スクナヒコノミコト」「クエビコ」など、小人症、歩行困難者と思わせる神様が登場します。スクナヒコノミコトがガガイモ(植物)の葉っぱ(10㎝ほど)に乗って出雲の国に行ったとき、誰にも気が付かれなかったそうです。
そこで出雲の神様である「大国主命」は、「ヤマダノホソド」という神様に、スクナヒコノミコトを他の神様に紹介するように言いつけました。
「ヤマダノホソド」も身体障害者の神様で、田んぼにある「カカシ」のことです。
稲作は、「イネ=命の根」で大変重要な仕事で、狩猟で家族が家を留守にしていてもカカシが家にいて雀からコメを守っていたことや、戦の時でも人が集まる場にいたことで情報をたくさん持っていたことから、物知りで農民たちから大切にされていたことが伺えます。
更に古事記では、四肢の障害以外の障害も見られます。
本牟智和気御子(ホムチワケノミコ)という天皇の子供(皇子)は言葉を話せなかったのです。その理由は、聴覚障害なのか構音障害なのか、自閉症なのか…分かってはいません。
この皇子は、山陰地方の温泉に治療に行きますが、「跛盲」(アシナヘメシイ、足と目が不自由)な人に出会います。不吉だとして、もう一度旅行をやり直すことにし、その後声が出たそうです。
※日本書紀において、ヒルコは「蛭児」と、アワシマは「淡路島(アハジシマ)」と表記されます。
神話が絡む日本から、リアルな奈良時代にタイムスリップしましょう。
この時代、古代国家は、当時の中国の唐をお手本にして、天皇がトップに立つ中央集権の国家を創ろうとします。
平城京を作り、それまでの「神信仰」から「仏教信仰」にし、お辞儀の仕方から服装に至るまでルールもすべて一新します。
そして、奈良時代の法律に、障害者対策として「税の減免措置」が記録として残っています。
農民は国へ米や麦を納めますが、農民の中に障害者がいる場合には、その障害の重さによって、納める量を減らす政策です。そして、法律にあるということは、障害者を1人の公民として見ているということです。
ちなみに、このような障害者への減免措置が法律に明記してあるのは、太平洋戦争以後まで少なく、画期的な政策と思われます。
一方で万葉集にあるように「防人(さきもり)が玄関に立ち、コメをしばらく炊いていない釜には蜘蛛の巣が張るのに、税を納めよと取り立てる…」と庶民に対する税の取り立てがきびしかった時代でもあります。
減免とはゼロという意味ではなく、その分だけ家族や村全体としての負担が増えていたので、土地から農民が逃げ出す事態にもつながっていました。
なぜ取り立てがここまで厳しかったのかというと、東大寺の大仏の建立で費用がかさんでいたことが原因の一つです。
その様子が、平安時代に書かれた『日本霊異記』日本最古の説話集に記されています。
東大寺建立の際、行基という僧侶がおり、カンパを集める役割の僧侶として活躍しました。
その行基と障害者を結ぶお話が残っています。
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南河内(今の大阪)で行基が説法をしていた時、10歳くらいの障害児と、この子供を背負った母親と出会います。その子どもはたくさん食べ物を食べ、泣いているばかりでした。行基は母親に子どもを川に捨てるよう言います。
母親は我が子を捨てることはできず、悩みますが、とうとう子どもを川に捨ててしまいます。川に捨てられた子どもは、魔物に姿を変えて、「私は前世で行基に物を貸したが、生きている間は返してもらえそうにない。だからたくさん食うことで取り返そうとした」と言い残し、川に流されていきました。
―――
この説話集から、「障害児者=魔物」という見方をされ、川に捨てられていたこと、僧侶である人でも障害児者を差別していた時代だということがわかります。
これがきっかけなのかは不明ですが、行基は仏教を権力者だけが説法を受けることができるものではなく、庶民にも布教活動を広めて庶民からの支持を得ていきます。
この時代、学問は身分の高いものに限定されていた時代です。国は仏教を独占することで、ずるく言えば「仏教は国だけが扱うことができる特別なもの=庶民をいいなりにできる」と考えられたので、行基が庶民に仏教を広めることは、今でいうと法律を施行する前に国民に情報を流したり意見を聞いたりすることに近かったのです。
そのため国から弾圧を受けるものの、日本各地を歩いて寺院を建立し、開墾や用水路をつくるなどの街づくりなど社会事業にも関わっていきます。
大阪の四天王寺に建てられた悲田院は養老施設(今でいう老人ホーム)、施薬院(今でいう病院)の役割を持ち、公立の施設です。
この頃光明皇后がハンセン病(らい病)患者の看病をした話も残っています。ハンセン病が日本に文字として出てくるのは日本書紀です。今でこそ治る病気ですが、この時代は現代ほど衛生的な環境はなかったことから、弱い細菌感染であるのにも関わらず、不治の病として社会問題となり、患者は放浪したり隔離されたり差別を受けてきました。これは2001年に患者の団体等が差別や隔離について訴えた訴訟が認められるまで、歴史はつづきます。
平城京がある一方で、都の奈良から離れた現在の東京など地方に行けば、一般庶民は竪穴式住居で暮らしていました。巨大国家プロジェクトのために、開墾や戦争が起き、家族の保護を受けられなくなった高齢者や障害者が多くなっていたこと、平和な社会を願って仏教にすがっていたのです。
ここまで、社会の中に障害者がいると知られていた一方、なかなか政治の舞台に立つのに、国ができてからかなり年月がかかったことが分かりますね。
天皇から貴族に政治の実権が移る平安時代に入ります。都は平安京、現在の京都府です。
貴族の家に生まれた障害者は表舞台に出ることはなく、都から離れた西の別荘で帳(今のカーテン)をおろして学問にはげんでいたといわれています。
またこの時代の天皇の皇子に「人康親王(さねやすしんのう)」という方がいますが、病気で失明し、それを理由に東の山荘へ出家しています。もともと親王は琵琶を弾くことが上手く、自分が目を患ったことをきっかけに、視覚障害者を集め、琵琶や管絃、詩歌を教えます。琵琶はエンターテイメントの楽器としてだけではなく、祭りの音楽(宗教音楽)としても使われるもので、また僧侶(法師)として経典を空で読める人も出てきます。
「東の郊外には、清流のほとりに琵琶の名手が住んでいて、悲しみのあまり泣きすぎて目が見えなくなった」と伝えられていますが、親王の出家先は平安京の東側の山科区にあるので、この経緯が絡んでいるのかもしれませんね。
そして人康親王の死後、側に仕えていた視覚障害者に検校(けんぎょう)と勾当(こうとう)という役職が与えられました。
これが、視覚障害者がいわば公務員の事務としての役職に就いた始まりといわれています。視覚障害者の役職は検校など4つの区分と、小項目73段階という昇給への道がありましたが、一生かけてもいけない厳しいもので、中にはお金で解決した人もいたといわれています。ちなみに親王は琵琶法師の祖神として京都の諸羽神社に祭られています。
障害者の中で、見た目が健常者と大きく変わらず技能に優れているとされ、視覚障害者が身体障害者の中でとりわけ目立つのはこのようないきさつも要因と思えてきます。
平安時代の絵画に杖を持って歩いている人が描かれているほどです。
平安京の南の郊外の「岩倉」地区は農村地帯でした。
当時後三条天皇の皇女佳子が、精神障害で「髪乱し、衣裂き、帳に隠れてもの言わず」という状態を治そうと霊告を受けて岩倉の大雲寺へ行き、「岩倉の滝」にうたれ、「閼伽井(あかい)の水」を飲んで治ったというエピソードが残っています。
当時、知的障害と精神障害の区別は現代ほどされていませんでしたが、障害と病気の区別も確立されていなかったので「(五体満足であるなら)治るもの」と思われていたのかもしれません。
これがきっかけで岩倉詣でをする貴族が増え、やがて民家を借りて長期滞在していたものの面倒を見切れなくなり、養子縁組して、一生を預けるようになりました。今でいうなら、寺をいう療養施設と民間の家に預けるような形ですね。
農民にとっては農地を守ってもらえるというメリットがあり、岩倉大雲寺をはじめとする岩倉地区で精神障害者を看る文化は、明治時代に大雲寺での療養が人口過密により廃止され、新たに医療施設として建立されるまで、およそ1000年以上続きます。
貧しい庶民の障害者に対しては、間引きされたり、路上生活をしていたことが伺えます。外国人の記述では、当時の日本は障害者が多いと書かれた文献もあり、自立しているように映ったのかもしれませんが、家庭で自立できなかったことの裏腹と推測されます。
金属製の針はこの頃中国や朝鮮を通じて伝わりますが、手足を器用に使える身体障害者が、家族が農作業をして出払っているとき、家に残っている際に細々裁縫をしていたかもしれません。
寺院の建立により、仏教も庶民に身近なものとなっていき、鎌倉時代に入ります。
鎌倉時代に移り、武士の時代になります。
「平家物語」などの軍記書物が多く世に出され、琵琶法師は長い話を空で琵琶を弾きながら語ります。また引き語りだけではなく、芸能者として、文化人の伝手や紹介状を頼りに、日本各地の有力な大名の屋敷を披露して回ったそうです。位によっては、僧侶の服や杖などを授けられていたそうです。
とはいえ、武士の時代であることで、戦地で戦えないとされた身体障害者は社会的な生きづらさを感じてきます。
絵巻物『一遍上人絵伝』のなかに、「いざり車」(今の車椅子)に乗った上半身裸の男が描かれています。さらには、両手に下駄のようなものをつけて動いている人の姿もあります。