障害者の歴史 南北朝時代~江戸時代

こんにちは!
東京三鷹市のパーソナル水泳インストラクターの酒井やすはです。

障害者の歴史、南北朝時代から入っていきます。

歴史には所説ありますが、今まで学校で習ってきた日本の歴史と絡めて、ぜひリラックスして読んでみてくださいね。
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こちらでは障害の表記を「障害」とさせていただきます。
福祉畑で働いていると、「表記よりも中身の方が大事だ」と思う反面、やはり気にされる方もいらっしゃると思うので、その理由を説明いたしますと、一つに私自身とその周りの方は表記よりも中身についてしっかり話し合う仲間が多い環境で生きてきたということと、音声読み上げソフトにかけた際に「障がい」表記では「さわりがい」等と誤った情報をお伝えしてしまうため、「障害」表記に統一させていただいております。

また、文献に沿って、現在では差別用語になる言葉もところどころ出てきます。
私自身に差別の気持ちはありませんが、障害のあるなしに関わらず誰もが暮らしやすい社会となることを願い、歴史のままにお伝えしていきます。
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では、始めていきましょう!

室町時代に盛んになった能の脚本(謡曲)にも障害を持つ人を扱った作品があります。『弱法師』というものです。登場するのは、『一遍上人絵伝』にも描かれていた車椅子に似た道具に乗っている主人公です。河内国高安の長者の息子俊徳丸は、ある人のデマにより父親から家を追われ、悲しみの余り盲目になってしまい、四天王寺周辺をよろめき歩く。ある春の彼岸の日、デマが誤解とわかり、四天王寺参詣に訪れた父親と俊徳丸は涙の再開を果たす。こういうストーリーです。
この話には2つのポイントがあります。1つは、仏教の功徳といった考えが背後になること。2つ目は、四天王寺という場所です。四天王寺は、聖徳太子が創建して以来、いくつもの慈善救済施設がつくられていて、中世になっても障害者や乞食などがこの寺の周辺で生活していました。

皆さんがよく知っているお話『御伽草子』の中にある「一寸法師」も「小さい人」という点では障害者と関係しているかもしれないお話です。

「御伽草子」とは、おおよそ鎌倉時代から江戸時代初期にかけて集められた短編を集めたもので、もともと大名が夜寝る前に「御伽衆」と呼ばれる人たちがいて、最近の出来事や、昔からの言い伝えなどを物語風に話して聞かせた「大人向け」のお話しが大元です。

「一寸法師」も、児童文学にある「小さなヒーロー」というわけではありません。

原典のお話しも最後に載せたので、読んでみてくださいね。

当時、外国人の記録で日本には障害者が多いと記されています。
道を歩いているとよく見かけるからという記事です。
障害者が自活しているように感じますが、実は家族が養うことができず、肩を寄せ合って路上生活していたことの裏側でした。

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「御伽草子」の一寸法師
老夫婦(40歳過ぎ)には子供がなく、住吉大社に「子供がほしい」と願ったところ、二人の間に男の子が生まれました。
一寸(約3㎝)しかないので、生まれた男の子は「一寸」と名付けられましたが、12~3歳になっても、まったく背が伸びない事を両親が不思議に思います。
老夫婦は「あの子は化物の子供かもしれない。どこかへ捨ててしまおう」と、夜中にこっそり相談し、一寸はそれを立ち聞きしてしまいます。

一寸は「こんな家にいられない!」と言い、そのまま出るのは何だと母から「刀と鞘の代わりに針と麦わら」を、船で京(まだ東京は首都ではありません!)に上がるためにと「おわんとお箸」を用意してもらいます。
そして住吉大社の浦(現在の大阪湾)から、おわんに乗って北上し、天満橋の辺りから北の河 (淀川) に入り、鳥羽の津(港のこと)、京都へ上がりました。

京に上った一寸法師はその風貌から三条の宰相の屋敷へ行き「もの申そう」と尋ねますが、下駄の下に踏まれてしまい始め気が付かれません。やっと宰相に見つけてもらうと、物めずらしさから気に入られ、屋敷に住めることとなりました。

16歳になった一寸ですが、背丈はそのままでした。その宰相には、13歳になる美しい姫がいて、彼は彼女に一目惚れし、「何とか、結婚できないか」と考えます。

そして、ある夜、祈祷などに使用する神聖な米を神棚から持ってきて、姫の寝室に入り、眠っている姫の口元にその特別な米を何つぶかくっつけました。

そして、翌朝、「姫が自分の米を盗んで食べた」と宰相に泣きマネをしました。

宰相は「人の物を盗んだ!」と激怒して、姫を殺そうとしますが、一寸は二人の間に立って仲裁し、姫と一緒に、一寸の故郷(難波)を目指していきました。
しかし途中で大嵐にあい、島にたどり着くとそこには二人の鬼がいました。鬼の一人は小槌を持っていました。鬼は姫を奪おうとしました。
一寸は鬼に丸呑みされるものの目から脱出して退治して、鬼は観念して「打ち出の小槌」を置いて逃げてしまいました。

打出の小槌を手に入れた彼は、背を高くしてもらい、次に「飯」を打ち出し、その後「金銀」を次々と打ち出してから都へと戻りました。
噂を聞きつけた時の帝から呼び出しを受けるのですが、一寸法師の両親の素性も、そこで只の老夫婦などではなく、父親は堀河の中納言の子供(誤解されて流された人)で、母は伏見の少将と申す人の子だったとわかりました。

「大きくなった一寸法師」は「堀河の少将」に取り立てられた後、程なく祖父と同じ「中納言」にも任じられ幸せに暮らしました。

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ところで、この御伽草子の「一寸法師」も地方により諸説ありますが、京都に上がる途中で京都府山崎町に今も残る「宝積寺 (ほうしょくじ)」で修行したとも言い伝えられています。

住吉大社には小づちが残っており、また住吉大社は海の神様で、遣隋使や遣唐使もここで祈願してから海の旅をしたといわれています。

そして子供のイメージがある「一寸法師」も「法師」という名前がつくことからお坊さんの呼び方であることから当時の成人としての扱いですね。

各地の大名同士が勢力争いをする時代です。

有名な関ヶ原の戦いなど実際の戦地は一般庶民の生活圏でも起きており、戦争のために農民は田畑を離れて山へ避難し、戦争の行方を見守り、戦争が終わって家に戻っても使いたい道も農地は荒らされたまま、田んぼのイネは全滅、負傷者であふれて農地が使えず、開墾からやり直し…といったように、自分たちがこれから生きるのもやっとの時代でした。

一般庶民ですら、農地を捨てて国を引っ越して生き延びていく時代、一般の障害者は「くぐつ」と呼ばれる障害者と健常者の合わさった「旅劇団」に入って、流浪の一生を送った人もいました。

琵琶法師と違うのは、あくまで劇団なので多いところでは20人~30人以上の人数で構成されたグループ「一座」を組み、各地を講演していきました。
「くぐつ」の由来は「操り人形」ですが、人形使い、曲芸師、奇術師(今でいう手品師に近い)、踊り子、琵琶や笛や太鼓などの演奏家など、色々な専門家の集まりでグループでした。くる病(ビタミン等栄養不足で骨が湾曲する)・カリエス(結核菌により組織が壊死し、歩行障害等が出る。エジプトのミイラにも見られる昔からある病気)・視覚障害者などの障害者がいたと記録されています。平安時代から少しずつ「座」はあったようですが、最盛期はこの頃でした。

聴覚障害者や言語障害者などはまだまだ歴史上にはっきりとは現れませんが、「狂言」の中に、聴覚障害者が視覚障害者と共に登場します。

「狂言」とは対話を中心としたせりふ劇のことです。中世の庶民の日常生活や説話などをテーマにし、大らかな「笑い」や「オチ」をつけます。

『月見座頭』という視覚障害者のお話や、『三人片輪』という3人の障害者(視覚・聴覚・肢体不自由)のお話があります。
最後に載せたので読んでみてくださいね。

戦国の内戦時、聴覚障害者は「耳が聞こえにくい=人と話せない」ことから「スパイ」として、軍隊の道案内として使われたという話が伝わっています。琵琶法師も、目が見えない一方で耳からの記憶力を買われて「スパイ」となっていた歴史があります。

毛利元就は中国地方の武将で、現在の広島県辺りに小さい領主として暮らしていました。当時の中国地方は、西に大内氏、東には尼子氏と巨大勢力があり、元就の暮らしていた広島県は小さい領主が点々と挟まれていた状態でした。どちらの勢力についても、負ければ自分の家も途絶えてしまいかねない状態でした。
元就はいわゆる「裏情報」を集めることに長けていて、大内氏の勢力下の農民が大内氏の敵なのか味方なのかまで詳しく知っていました。これは元就が琵琶法師を各地に派遣して情報収集をさせ、庶民がどちらの味方をしているのか、本音の敵味方を知っていたからでした。結果、中国地方を統一し、織田信長が震えるほどの戦国武将となったのです。

他にも、天下を統一した豊臣秀吉の軍師「竹中半兵衛」は、結核に冒された内部障害者で、風林火山で有名な武田信玄の軍師「山本勘助」は、片眼の上に片足を引きずっていた身体障害者、秀吉に仕えて北陸の大名「大谷刑部」はハンセン病から失明してしまいますが最後まで大名として活躍したそうです。

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月見座頭
八月十五夜(現在の秋)の名月の夜、一人の座頭(視覚障害者)が月を見ることはできなくとも虫の音を楽しもうと言って、野辺に出かけます。
すると月見に来た男と出会い、二人は歌を詠みあい、意気投合して酒宴となります。謡い舞って良い気分のまま別れますが、男は途中で立ち戻り、座頭に喧嘩をふっかけ引き倒してしまいます。座頭はさっきの人と違って情のない人もいるものだと言って、独り野辺で泣くのでした。

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三人片輪

あるところに、お金持ちが住んでいました。お金持ちは、片輪者(障害者、現在は差別用語です)を雇用しようと高札(看板)を立てます。そこにやってきたのは座頭(目が不自由)、いざり(足が不自由)、おし(言葉が不自由)の三人の片輪者達でした。
ところがこの三人はギャンブルで大負けした博打打(ばくちうち)で、障害者に成りすましていたのでした。何も知らないお金持ちは三人とも雇用し、座頭には軽物蔵(着物の蔵)、いざりには酒蔵、おしには金蔵の番をそれぞれ命じて外出します。
有徳人がいなくなり、三人の博打打はいつもの自分にもどると、三人で酒蔵の酒を呑んで金蔵から金を盗んでもうひと勝負ギャンブルをすることになりました。酒盛はとても盛り上がり、舞を舞っているところ、お金持ちが出先から帰ってきました。
三人は慌てて最初の障害者に成りすまそうとしますが、自分が演じていた障害者が何なのかを取り違えてしまい、正体がバレてしまい、おずおず逃げて行くのでした。

言わずと知れた徳川幕府の時代の幕開けとなります。
江戸時代は戦乱が落ち着いてきたことで芸術や教育が発展していった時代でもあります。

それまで「絵」というと、貴族など一部の特権を持った人の肖像画や史実を残しておくものでしたが、浮世絵と呼ばれる一般庶民の生活風景が多く描かれるようになりました。
葛飾北斎が浮世絵画家として有名ですが、浮世絵の中に「いざり車(平たい木の箱に小さな木の車輪を付けた、車いすの原型)」に乗った人が描かれています。江戸時代、健常か障害かに関わらず籠を使って移動ができたのですが、病人や琵琶法師や肢体不自由者などもいざり車や籠を使って移動ができたそうです。

庶民の住まいは、長屋という集合住宅で、現代よりも隣近所の顔がよくわかる生活をしていました。一方で、「きょうのような日は、日ごろ家にこもっている不自由の者も」という表現があることから、まだまだ、障害者が成人してもなお家から出してもらえない風潮もありました。
生活が厳しい場合、障害者は「捨て子」とされ、文献では「多指症」の障害を持った人がホームレス生活をしていたり、見世物小屋で障害を理由とした曲芸を披露するような障害者も多くいました。
浮世絵に描かれていた人も、寺の前で物乞いをしに来ていた障害者だったのかもしれません。

お寺には階級に関係なく様々な人が集まる場所であり、「寺小屋」という民間の教育施設が全国的に広がっていきます。もともとの起源は古く、平安時代から続いていたそうで、その名の通り当時は寺等で僧侶や神職が先生となって「読み書きそろばん」を庶民に教えていました。江戸時代になると武士や医者も先生となり、町民が学びました。寺子屋には障害児も学びに来ていたそうです。

貴族の遊びだった短歌から俳句文化が生まれ、多くの一般庶民の中で俳句遊びが流行しました。テーマやルールを決め、俳句を作って一人ずつ読んでいき誰の出来が良いか、などを競ったりしました。ここでも身体障害者や視覚障害者も俳句に触れていきます。

歴史書など本の編纂も盛んに行われ、各地の伝承や伝記をまとめた本も出来上がります。
妖怪話の中に「海座頭」という琵琶法師の恰好をした人が杖をついて海に入っている姿が描かれているものもあります。
怪談「雨月物語」の作者「上田秋成」は、幼い時に天然痘にかかり、両手の指が小指より短くなるなどの障害を負っていた一人です。天然痘そのものは、古代エジプトから大陸に戦争や民族の移動で大陸に広がり、日本書紀に記述が残るほど古くから存在していました。天皇や庶民に関わらず、天然痘は日本でも流行し、江戸時代は流行期でもあったようです。

このころは天然痘にかかると免疫力を持つことも経験的に知られており、武将黒田長政で有名な現在の福岡県・宮崎県あたりにあった「秋月藩」では、天然痘の予防に貢献した人もいます。医者の緒方春朔は、ジェンナーの牛痘法成功(天然痘にかかった牛からのワクチン)の6年前の寛政4年(1792年)に、子供たちに人痘種痘法(天然痘にかかった人の膿等を使う、江戸時代版ワクチン接種)を施し成功しました。

この秋月藩で、上杉鷹山(ようざん)という後に米沢藩(現在の山形県)藩主となる人物が生まれます。
鷹山が行った、江戸幕府とも一味違った福祉政策をご紹介します。

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上杉鷹山
日向高鍋藩(現在の宮崎県、舞鶴公園あたり)の次男として生を受けました。
9歳で米沢藩主・上杉重定の婿養子に決まり、17歳の時に家督を継ぎました。(治憲はるのり、という名前でしたが、以下分かりやすく鷹山で統一させていただきます)
鷹山が正室として迎えたのが幸姫(よしひめ)というお姫様でした。
鷹山より2歳下でしたが、身体が凄く小さく、30歳で亡くなるときに着ていた着物が子供が着るようなサイズだったほど、脳に障害があり発達が遅れているお姫様だったようです。
また鷹山は側室を一人だけ迎え、子供も生まれますが、長男が天然痘にかかり19歳の若さで亡くしてしまいます。
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1 医療の充実
天明の飢饉もあり、餓死や病人が例を見なく多かった時代、鷹山は藩内の各地に医師を配置させて、一般市民がいつでも医者にかかることができるようにしました。

2 江戸時代版「子供手当」
これまでの時代と同様、貧しい農民は間引きなど、障害者を育てることができず、堕胎も行われていました。
鷹山が藩主となったとき、どこの藩よりも藩の財政が大赤字で揶揄されていたほどでしたが、他の節約政策と同時進行してお金を捻出し、子育てができない農民に与えました。
今でいう「子供手当」のようなものですね。
30年後、堕胎の根絶が叶います。

3 江戸時代版「年金」「介護サービス」
障害者も生きづらい時代でしたが、高齢者も生活ができない時代でした。
高齢者の「姥捨て」も横行していました。
鷹山は90歳以上の高齢者に対して、現在の年金のように本人が亡くなるまでお金を給付しました。
また70歳以上の高齢者に対して、各村で世話をするよう指示し、高齢者の世話をした村人を褒章しました。

この結果、「姥捨て」という悪習も根絶できました。

江戸幕府はこの貧困や格差社会を全く止めなかったわけではありませんでした。

「障害者保護政策」として、その一つが「座」と呼ばれる階級制をつくりました。
身体障害者に対して、身体障害者だけができる仕事を健常者と区別して仕事を独占させ、障害者が経済的に自立することを目指しました。
視覚障害者は、琵琶法師などで活躍していたことは室町時代でお伝えしましたね。
視覚障害者の階級にも「座頭」というものができ、国に公認された保護対象となりました。この頃、琵琶法師だけではなく、三味線、箏、胡弓等の演奏家、作曲家など音楽関係以外にも、鍼灸、按摩の職業人も増えていきました。
依然として、高い地位を目指すのは厳しかったようです。座頭相撲(視覚障害者の相撲)など見せ物に就職する人や、官位昇格費用の取得を簡単にするために高利の金貸しが公認されたので、悪辣な金融業者となる人もいたと伝えられています。

ちなみに、この頃になると視覚障害者の必需品である「杖」に色分けが出てくるようになりました。現在のような白杖として確立されたのは20世紀にはいってからで、当時は階級により視覚障害者の杖の色が違っていたともされています。各国(藩)で色分けは様々で全国統一ではなかったようですが、いずれにしても歩行用として利用していたようです。

幕府がこのような障害者政策を行っていたことは、将軍家にも障害者がいたことや天然痘の流行なども背景に考えられます。

5代将軍、徳川綱吉は貞享四年に殺生を禁止する法令「生類憐みの令」を制定しました。
綱吉が戌年であったことから、特に犬を厚く保護したことは有名です。
この「生類憐みの令」は、人間の幼児や高齢者、病人、障害者、アイヌ民族なども対象でした。
社会的な弱者を保護の対象とすることで、長い年月を経て遺棄などの横行は減っていき、また「弱者を殺す」ことに対する庶民の意識も変化していきました。イギリスで児童虐待を禁止する法律が制定される前のことです。

9代目の家重と13代目の家定は、身体障害者だったとされます。家重は脳性麻痺による言語障害や顔面の麻痺等があったとされ、骨の状態から歯ぎしりも多く重度だと推測されます。
家定は来日アメリカ人「ハリス(アメリカの初代駐日公使)」と謁見し、ハリスは「日本日記」に家定の様子を詳細に記録しています。そこには「家定は発言をする前に首が左へぐいっと向き、足を踏み鳴らした」など、脳性麻痺による不随意運動と思われる様子が伺えます。