障害とは?障害者とは?

こんにちは!
東京三鷹市のパーソナル水泳インストラクターの酒井やすはです。

今回は「そもそも、障害とは何でしょうか?」という根本テーマに触れてみたいと思います。

障害と言われて思い浮かべるのは何でしょうか?
世間一般にある言葉を拾ってみました。

・腕がない
・足がない
・勉強ができない
・どんな人かよくわからない
・急に怒り出す
・自分中心
・いつも保護者が必要
・人づきあいができない

どのようなイメージにせよ、「障害=困ったもの」という考えが一般的です。

それでは、障害者とは誰の事を指すのでしょうか?

「障害=困ったもの」であるなら、「障害者=困った人」でしょうか?
同じクラスの勉強が苦手な人のことでしょうか?
車いすに乗って生活している人のことでしょうか?

日本では、障害をお医者様が診断し、診断基準に基づいて障害を「軽度」から「重度」へ等級をつけ、診断結果が出た方は障害者手帳を持っています。

日本は、「身体障害」「知的障害」「精神障害」の3種類の手帳があります。
最近メディアに出てくる「発達障害」は「知的障害」か「精神障害」のどちらかの手帳に分けられることが多く、また「車いすを使っている知的障害者」のように障害が重複している場合は2種類の手帳を持っています。

では「障害者手帳を持っている人=障害者」でしょうか?
ちがいますよね。

難病で困っていたり、軽度の知的障害で健常者と一見して見分けがつかなかったり、発達障害はあるものの学校では目立って難しい場面があまりなかったり、「グレー」と言われる方は多くいらっしゃいます。

このように、医学的な診断をベースにして手帳を発行して分類しているのは日本の特徴で、海外ではむしろ少数派です。

1975年(昭和50年)、日本では山陽新幹線が岡山駅から博多駅まで開通し、第二次ベビーブームがあり、ブーツが流行り、今スーパーにある定番のお菓子が発売されてきたこのころ、国連は「障害者の権利宣言」で障害者について以下のように定義しました。

『障害者とは「先天的か否かにかかわらず、身体的又は精神的能力の不全のために、通常の個人又は社会生活に必要なことを確保することが、自分自身では完全に、又は部分的にできない人のことを意味する」』

もっと簡単に言いますと、障害を「個人の体や脳の問題」ではなく「人と人との間(広く言えば社会)に障害がある」という考えなのです。
国連は障害「認定」をしているわけではなく、あくまで「定義」だけしたのですね。

そして世界中の国々がこれを元に、それぞれの制度を作っていったのです。

日本は制度を作るときに「個人の能力」にフォーカスして今に至っています。
福祉の制度を作るとき「この制度は誰が使うものなのか」をお医者さんの診断を受けて障害者として「認定」された「障害者手帳を持っている人」とし、手帳を持っている人が制度を使えるようになりました。

見方を変えれば、「私は障害者」と訴えていても、「法に基づき認定されなければ、障害者になれない」という仕組みがあります。
どんなに医学が発展しても「グレーゾーンで困っている」方が出てくるのはこのためなのです。

海外では、「目が見えない・耳が聞こえない」と言った「個人の体のこと」と並行して「人と人との間に障害がある」という考えで、制度を作る動きがありました。

国により違いはありますが、例えば、日本で住宅改修をするとき「あなたは身体障害者で軽度と診断されているから、家を改修するなら、軽度の人が使える制度はこの範囲限定です」とされるところを、海外では「あなたには軽度の身体障害がありますが、今の家は古くて使い続けるにはとても困難があるので、総合して考えると制度で使えるのはこの範囲ですよ」と、その人の周りのヒト・モノ・コトについても見ているようです。

日本は海に囲まれた島国という事情から民族の往来に制限があったことに対し、ヨーロッパやアメリカは長い歴史の中で様々な民族が交流していたことで、私たちより肌の色を民族の違いとみていることと同じように、障害を「違い」「差」として見ているのかもしれません。

世界により、「障害者」に対する考え方に触れてきました。
この2016年4月から「障害者差別解消法」が施行されました。

物理的に建物にスロープをつけて、差別は解消されるのでしょうか?
物理的には段差の解消がされますが、「車いすが通ると、道幅が狭くなるじゃないか」なんて周りの目が変わらなかったら、差別解消にはなりませんね。
「何でも障害者に配慮しなさい」「健常者はガマンしなさい」という法律ではありません。
あくまでも、「障害のある人もない人も共に社会で暮らしていく」ための法律です。
一方、海外では「差別禁止法」が施行されています。

とはいえ、健常者が障害者の気持ちを理解することはとても難しく、障害者も健常者の気持ちを理解することは難しいものです。それは、家族であっても「お母さんの気持ちなんてわからない!」「こどもの言ってることが理解できない!」というのですから、当たり前と言えば当たり前のことです。

ただ、お互いに当たり前であることが、当たり前でないから、より「そもそも論」で暗中模索になります。
意見をぶつけ合ったり話し合ったりできれば良いのですが、お互いに理解が進まず「健常者はわがままだ」「障害者はわがままだ」と終わってしまうのは苦しいものです。

これを解消するには①たくさんの障害者や健常者とお話しする②障害者の歴史を知る、が私個人としておすすめです。

私は学校の科目の中で、歴史が大の苦手でした。
年号の暗記や、出来事のつながりがイマイチ繋がらず、どちらかと言えば先生の「歴史の脱線話」の方がおもしろかった思い出があります。
特に伝記など一人の人間にフォーカスしていくのは、人となりや生き様に触れていて楽しく感じていました。

そんな私が障害者の歴史を学んだとき、「あーこういうことだったのか!」「どうして学校で日本の歴史を習うとき、障害者の歴史がなかったんだろう!」と思うくらい、新しい世界でした。これを知ることで、本来の「だれもが暮らしやすい社会とは何か」が叶うとも思っています。

大まかではありますが、「歴史が苦手だった私」が、障害者の歴史について分かりやすく丁寧に、他のページにアップしました。
歴史には所説ありますが、今まで学校で習ってきた日本の歴史と絡めて、ぜひリラックスして読んでみてくださいね。